
若いピアニスト、まばゆい即興演奏、そして偉大な未来の予言。モーツァルトとベートーヴェンの出会いの物語は、何世代にもわたり人々を魅了してきました。その話はどこから来たのか。背後には何が見えてくるのでしょうか。
思わず信じたくなるほど魅力的な物語です。十代のベートーヴェンがウィーンに到着し、モーツァルトの前で演奏すると、返ってきたのは礼儀正しい反応でした。そこで彼は即興演奏のための主題を求めます。その音楽がモーツァルトの評価を変えます。年長の作曲家は周囲の人々に向かって、世界はいつかこの若者の名を知るだろうと予言するのです。
一人の偉大な作曲家が次の偉大な作曲家を見抜く。音楽史に残っていてほしい出会いです。
しかし、モーツァルトとベートーヴェンは本当に会ったのでしょうか。
この物語をたどるには、まず旅から始める必要があります。何がベートーヴェンをウィーンへ導き、その冬モーツァルトはどこにいて、有名な試演の話はどのように本に載ったのでしょうか。
出会いの背後には、もう一つの問いがあります。ベートーヴェンが今日の「ベートーヴェン」になる前、モーツァルトはボンから来たこの若い音楽家について何を知っていたのでしょうか。
1787年のウィーン:二人の道が交わり得た場所

1787年にウィーンを訪れたベートーヴェンは16歳でした。モーツァルトはその年の1月に31歳になりました。若い方の音楽家は、すでに選帝侯の宮廷楽団で働いていたボンから来ました。年長の音楽家は、作品が街の外へも広く伝わる、名の知られた作曲家でありピアニストでした。 [1]
二人が同じ期間ずっとウィーンにいたとは限らないため、日付が重要になります。
ベートーヴェン・ハウスは、彼の出発を1786年末、ウィーン滞在を1787年1月から4月の間としています。一方、モーツァルトは1月の多くと2月初めをプラハで過ごしました。そこでは《フィガロの結婚》が大評判になっていました。彼は2月8日にプラハを発ち、おそらく数日後にウィーンへ戻りましたが、正確な帰還日は不明です。 [1][2]
したがって、二人の道が交わる機会はありました。モーツァルトのプラハ訪問は、出会いを否定する理由にはなりません。
二人が互いに会いに行ける距離にいたことで、有名な物語の舞台が形を取り始めます。次の問いは、そもそも私たちがこの話をどう知ったのか、ということです。
モーツァルトの有名な予言はどこから来たのか

試演について最もよく知られる記述は、オットー・ヤーンが19世紀に書いたモーツァルト伝にあります。ヤーンによれば、ベートーヴェンが弾いた曲をモーツァルトは準備してきた技巧的な見せ場の曲と受け取ります。そこでベートーヴェンが即興の主題を求め、モーツァルトの注意を引きつけ、有名な予言を引き出します。 [3]
ヤーンの記述の英訳では、モーツァルトの言葉とされるものは次のようになっています。ここでは日本語に訳します。
「あの若者を覚えておきなさい。いつか世界に名を知られるでしょう!」 [3]
これは後世の伝記がモーツァルトに帰した言葉です。モーツァルト本人の発言として確認された引用ではありません。
ヤーンの出典注は示唆的です。彼はウィーンで「信頼できる筋」から話を聞いたと述べますが、その場の目撃者を名指ししていません。伝記の刊行が始まったのは1856年で、ベートーヴェンの訪問から約70年後でした。1813年生まれのヤーン自身が、この出会いを目撃したはずはありません。 [3][4]
物語の魅力は明らかです。後に現れるベートーヴェンの偉大さを、モーツァルトが先に聴き取れたものとして描きます。クラシック音楽史と切り離せない二人の作曲家の間に、才能を認める満足のいく瞬間を与えてくれるのです。
魅力があるからといって、話が虚偽になるわけではありません。口伝は実際の出来事を保存することがあります。しかし、名前のない情報源、長い時間の隔たり、見事に構成された逸話は、同時代の手紙と同じ確実性をもたらしません。
ヤーンの文章は、この物語が19世紀のウィーンで語られていたことを示します。試演が記述どおりに行われたことや、モーツァルトがその正確な言葉を発したことまでは立証しません。
欠けているのは次の段階です。紹介を記した手紙、1787年に書かれた日付のある回想、ベートーヴェンをモーツァルトの鍵盤の前に位置づける授業記録などです。旅はベートーヴェンがウィーンにいた証拠ですが、それ自体はモーツァルト宅を訪問した証拠ではありません。ボンのベートーヴェン・ハウスも、可能性のある出会いを記録未確認としています。 [1]
レッスンにも同じ慎重さが必要です。同館は旅をモーツァルトに学ぶための試みと説明しますが、意図があったことは指導が実際に行われた証拠にはなりません。望まれた関係を、記録によって確かめられた師弟関係に置き換えることはできません。 [1]
モーツァルトはすでにベートーヴェンを知っていたのか

ベートーヴェンを、著名な作曲家の戸をたたく無名の少年と想像するのは容易です。ボンの記録は、その印象を複雑にします。
1778年3月、父ヨハンはケルンの公開演奏会で息子を紹介しました。広告は6歳のピアニストと宣伝しましたが、実際には7歳でした。父は神童として売り出そうとしていました。この誤った年齢は、才能をいっそう際立たせる計算された策略と解釈されがちです。しかし同館によれば、家族は彼の年齢に確信がなかったようで、ほかのボンの文書にも誤記があります。 [5]
1782年には、ベートーヴェンの作品が出版されていました。エルンスト・クリストフ・ドレスラーの行進曲によるピアノのための9つの変奏曲、WoO 63です。1783年には初期の3つのピアノ・ソナタ、WoO 47が続きました。ウィーンへ行く数年前から、彼は作品が出版された作曲家だったのです。 [5][6]
さらに、目を引く公的な評価が現れます。1783年3月2日、クラーマーの『Magazin der Musik』に掲載された報告で、師クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェは若者を有望な才能として紹介し、成長を続ければ第二のモーツァルトになるだろうと述べました。 [6]
ここでの区別は決定的です。これはベートーヴェンに対するネーフェの評価であり、モーツァルトの評価ではありません。
モーツァルトがベートーヴェンの名、出版作品、またはこの報告に接した可能性はあります。情報は存在し、伝わり得ました。しかし彼がネーフェの評価を読み、初期の出版譜を見たり、その作曲家を紹介されたりしたという証拠はありません。
したがって「モーツァルトはベートーヴェンを一度も聞いたことがなかった」は断定しすぎです。「モーツァルトはすでにベートーヴェンを知っていた」も同じです。彼が実際に知っていたことは、記録で確認できません。
ベートーヴェンはモーツァルトの演奏を聴いたのか
ここには興味深い可能性がありますが、別の回想の連鎖を通して伝わっています。
弟子のカール・ツェルニーは後に、モーツァルトの演奏についてベートーヴェンのものとされる発言を伝えました。1852年のヤーン宛ての手紙では、繊細だがやや途切れがちな、レガートのない弾き方という評価が述べられています。レガートとは音をなめらかにつなぐことです。伝えられた発言は、無条件の賛辞というより批評でした。 [7]
ツェルニーが1787年の訪問を目撃することはできません。生まれたのは1791年です。伝承はベートーヴェンからツェルニー、そしてヤーンへと続き、文字にされたのはずっと後でした。 [7]
後の記述も整然とは一致しません。ヤーン自身の注は、フェルディナント・リースを根拠に、ベートーヴェンはモーツァルトから何度かレッスンを受けたが演奏は一度も聴かなかった、と述べています。これはツェルニーの回想と折り合いません。この食い違いも、記述を一つの確かな物語にまとめない理由です。 [3]
もし回想がベートーヴェンの実際に聴いた演奏への発言を忠実に保存しているなら、最初のウィーン訪問は考えられる機会です。しかし、これはその演奏を記録した日付のある報告ではありません。また音楽家を聴くことは、必ずしも会うことではありません。聴衆は一度も紹介されずに演奏を聴くことができます。
この違いは証拠の向きを正しく保ちます。ベートーヴェンがモーツァルトを聴いたという回想は、ベートーヴェンの経験を示すものです。モーツァルトが彼に気づいたことや、その演奏を聴いたことは示しません。
ベートーヴェンは会わなくてもモーツァルトから学べた
二人を結ぶ最も強いものは逸話ではありません。音楽です。
1785年に書かれたベートーヴェンの3つのピアノ四重奏曲、WoO 36は、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタと密接に関係しています。レオナルド・ミウッチの研究は、K.296、K.379、K.380に模範を見いだしています。類似は鍵盤の音型や主題の発想から、楽章全体の構成にまで及びます。 [8]
これは、ウィーン行き以前のボンでの成長期に、モーツァルトの音楽が模範となっていたことを示します。それぞれの楽譜をどう知ったかまでは確定しませんが、要点は具体的です。モーツァルトの影響は、本人に紹介されることに依存しませんでした。
出版された音楽は二人の距離を越えられました。教師、演奏家、支援者の好みも同じです。ベートーヴェンは隣に座らなくても、モーツァルトが楽章をどう組み立てたかを学べました。
この関係は1791年12月のモーツァルトの死の後も続きます。ベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのための変奏曲、WoO 40は、《フィガロの結婚》の「Se vuol ballare」を主題とし、1793年に出版され、エレオノーレ・フォン・ブロイニングに献呈されました。ここでモーツァルトの音楽は遠い理想ではなく、新しいベートーヴェン作品の素材なのです。 [9]
これは記録のある音楽的対話です。二人の男性同士の対話が不確かでも、それは変わりません。
実際に残されているモーツァルトにまつわる予言

ベートーヴェンとモーツァルトをめぐる予言はもう一つあります。こちらは日付のある文書に残っています。
1792年10月29日、ハイドンに学ぶためボンからウィーンへ発つ準備をするベートーヴェンに、フェルディナント・ヴァルトシュタイン伯爵が別れの記念帳へ言葉を書きました。モーツァルトの死から1年もたっていませんでした。伯爵はベートーヴェンが「ハイドンの手からモーツァルトの精神」を受け取ることを願いました。 [10]
この表現は象徴であり、出会いの報告ではありません。ベートーヴェンの未来を継承として捉えています。ハイドンが、モーツァルトの芸術的精神を受け継ぐ手助けをするということです。
また、モーツァルトがベートーヴェンの周囲の人々の想像力をどれほど強く占めていたかも示します。ネーフェは1783年に少年の将来性をモーツァルトと比較しました。その9年後、伯爵は同じ模範を中心に若者の次の段階を描きました。 [6][10]
ここで史料上の対照は特にはっきりします。ベートーヴェンの未来を願う伯爵の文章は残っています。しかし、彼を評価するモーツァルトの同時代の発言は、それに相当する形では残っていません。
通常モーツァルトの口に帰される有名な予言こそ、真正性を確かめられないものです。紙の上で指し示せる予言は、別の人の言葉なのです。
結局、モーツァルトとベートーヴェンは会ったのか
確信をもって「はい」と言えるかという問いなら、答えは「いいえ」です。出会いを立証する既知の同時代の証拠はありません。
出会いが不可能だったかという問いにも、答えは「いいえ」です。二人の生涯は重なり、ベートーヴェンはウィーンへ行き、時系列は個人的な接触の余地を残します。後世の記述が実際の出会いを保存している可能性はありますが、部屋で何が起きたかを確実には教えてくれません。 [1][3]
モーツァルトはベートーヴェンのことを聞いていたかもしれません。演奏を聴いていた可能性さえあります。現在、どちらもモーツァルトに関する同時代の史料からは証明できません。
ベートーヴェン側の関係は、はるかに追いやすいものです。モーツァルトは音楽教育の模範であり、初期作品の中に存在し、周囲の人々が彼の将来性を理解するために使う名前でした。 [6][8][10]
二人は会ったのかもしれません。二人にまつわる最も有名な場面は、起きなかったのかもしれません。残されたものから、確信をもって選ぶことはできません。
影響には記録があります。出会いにはありません。そして、若いベートーヴェンをモーツァルトがどう思ったかは、歴史がまだ答えていない問いです。
出典
[1] Beethoven-Haus Bonn, Chronology: Beethoven in Bonn. Entries for 1782, 1784, 1786–87 and 1792. The 1786 entry explicitly describes a possible but undocumented meeting with Mozart between January and April 1787. 出典.
[2] Dexter Edge, Mozart’s entry in Kronauer’s Stammbuch, 30 March 1787, Mozart: New Documents. Commentary on Mozart’s first Prague visit: departure on 8 February 1787 and probable arrival in Vienna three or four days later. Read alongside the 18 January 1787 document on Figaro’s Prague reception. 出典. 追加の出典.
[3] Otto Jahn, Life of Mozart, translated by Pauline D. Townsend, vol. II (London: Novello, Ewer & Co., 1882). pp. 345–346, Beethoven’s reported visit; note 76 identifies only a Viennese account communicated ‘on good authority’ and cites the conflicting Ries report. Evidence for the later anecdotal tradition, not a contemporary record of the meeting. 出典.
[4] University and State Library Bonn, Otto Jahn zum 210. Geburtstag (2023). Jahn’s birth in 1813 and the publication of his Mozart biography beginning in 1856. 出典.
[5] Beethoven-Haus Bonn, Beethoven: A Life in Pictures, selected and captioned by Julia Ronge. Items 8 (1778 concert announcement and uncertainty over Beethoven’s age), 11 (Dressler variations), 14 (early sonatas), 16 (Neesen silhouette), 19 (Waldstein album entry). 出典.
[6] Beethoven-Haus Bonn, Nine Variations on a March by Ernst Christoph Dressler, WoO 63. Work commentary by J. R.; first publication in 1782 and Neefe’s report in Cramer’s Magazin der Musik, 2 March 1783, including the prediction that Beethoven might become a second Mozart. 出典.
[7] Richard Traeger, Texture and Playing Style in Classic Keyboard Music, Harpsichord & Fortepiano 16, no. 2 (Spring 2012), pp. 27–32. Opening discussion, p. 27: Czerny’s 1852 letter to Jahn and the comment attributed to Beethoven. Used as a scholarly discussion of the later transmission, not as a contemporary eyewitness account. 出典.
[8] Leonardo Miucci, Beethoven’s Piano Quartets WoO 36: Conservatism and Evolution, pp. 156–175, DOI 10.26045/kp64-6180-008. Especially pp. 156–157 and 162–166: the Bonn context, Neefe, the 1785 quartets and models in Mozart’s violin sonatas K. 296, K. 379 and K. 380. 出典.
[9] Beethoven-Haus Bonn, Variations on ‘Se vuol ballare’ from Mozart’s Le nozze di Figaro, WoO 40, original edition, Artaria, plate 437. Original printed edition; title page and dedication to Eleonore von Breuning. Read with A Life in Pictures, item 13, which dates the dedication to 1793. 出典.
[10] Ferdinand Ernst von Waldstein, album entry for Ludwig van Beethoven, Bonn, 29 October 1792; Beethoven-Haus Bonn, B 130/b. Catalogue entry for the reproduced autograph. Full transcription and English translation in Beethoven-Haus, A Life in Pictures, item 19. 出典. 追加の出典.
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