「Cara, la dolce fiamma」(J. C. バッハによる)、K. 293e
de Wolfgang Amadeus Mozart

モーツァルトの「Cara, la dolce fiamma」(K. 293e)は、独立した演奏会用アリアというより、ヨハン・クリスティアン・バッハのアリアに施すための“書き込まれた声楽装飾”の集成であり、モーツァルト周辺で筆写され、1778年のマンハイム時代と結び付けられている。そこに残る数ページは、既存のオペラ番号をスタイルや趣味、表現上のニュアンスを試す実験室へと変える――モーツァルトの実践的で歌手中心の装飾観を伝えている。
背景と文脈
1778年、22歳のモーツァルトは数か月にわたってマンハイムに滞在し、名高いオーケストラ文化と劇場文化に触れながら、職を求め、歌手や器楽奏者たちとの人脈づくりに努めた。その周辺事情の中で、Cara, la dolce fiamma は「J. C. バッハによる(after J. C. Bach)」という付随資料として伝わっている。すなわち、歌詞を新たに作曲し直したものではなく、バッハのオペラ Adriano in Siria(ロンドン、1765年)に含まれるアリアに対する模範的な装飾例である [1]。資料の性格からは、出版用に整えられた作品というより、現場で用いる作業文書だったことがうかがえる。モーツァルト研究の校訂報告では、このアリアへの装飾の書き込みを含む一葉が、モーツァルト自身と妹マリア・アンナ(「ナンネル」)の筆が混在する形で記され、のちに関連資料とともに綴じ込まれた、と説明されている [1]。
音楽的性格
K. 293e の「譜面に書かれているもの」は、本質的には装飾を施された声部線である。つまり、熟練した歌手なら本来は即興で行い得た Auszierungen(装飾/装飾的変奏)を、バッハのカンタービレなアリアに適用した“書き下ろしの装飾”である。楽曲全体を書き換えるのではなく、モーツァルトは局所的な表現の細部――回音、トリル、そしてつなぎの音型――を与え、旋律の輪郭を見失わせないまま情感を強めている [2]。
この意味で本資料は、モーツァルトがオペラの上演実践に向けて行っていた広い関与のあり方にきわめて近い。彼が声楽の“コーチ”のように考え、線の明晰さと、終止部や感情の強い語における修辞的な強調を求める演奏者の必要との均衡を図っていることが見えてくる。小品的な文書であるとはいえ、K. 293e は、J. C. バッハを媒介として、イタリア風の抒情が、節度ある統制されたヴィルトゥオジティによってどのように高められ得るかを、モーツァルトが学んでいく過程を直接に示している [2]。
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[1] Mozarteum (DME) PDF critical report describing the bound leaf containing Mozart/Nannerl embellishments to J. C. Bach’s aria “Cara, la dolce fiamma” from Adriano in Siria.
[2] Cambridge Opera Journal article “Mozart’s Operatic Embellishments” (discussion includes Mozart’s embellishments for J. C. Bach’s “Cara, la dolce fiamma”).




