K. 366

《イドメネオ、クレタ島の王》(K. 366)――モーツァルトの「海」そのもののオペラ・セリア

沃尔夫冈·阿马德乌斯·莫扎特

Mozart from family portrait, c. 1780-81
Mozart from the family portrait, c. 1780–81 (attr. della Croce)

Idomeneo, re di Creta ossia Ilia e Idamante(K. 366)はモーツァルトの三幕のopera seria(またはdramma per musica)で、1780〜81年にザルツブルクとミュンヘンの間で作曲され、1781年1月29日にミュンヘン宮廷劇場で初演された。[1][2] 25歳のモーツァルトが書いたこの作品では、イタリアの英雄オペラの慣習は単に身につけられているだけではない。合唱、オーケストラ、そして舞台上の壮観へと外側へ押し広げられ、ドラマはまるで海そのものとともに呼吸しているかのように感じられる。[4]

背景と文脈

1780年の晩秋、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756–1791)は、名目上はなおザルツブルクの大司教(侯爵大司教)ヒエロニュムス・フォン・コロレドに仕えていた。だが実用的な教会・宮廷音楽を好むこの雇い主の嗜好は、モーツァルトにとって次第に創作上の「天井」のように感じられていた。そこへ舞い込んだIdomeneoのミュンヘンからの委嘱は、はるかに希少なものだった。マンハイム楽派の管弦楽のヴィルトゥオーゾ性を吸収し、グルックに結びつく改革の衝撃波も受け止めていた、大規模な宮廷劇場文化への招待状だったのである。バイエルン選帝侯カール・テオドール(当時はマンハイムからミュンヘンへ移っていた)は、卓越したオーケストラと、高度な演技力・技巧を求められる現場に慣れた歌手陣を擁していた。[4]

主題――嵐を生き延びたイドメネオが海神ネプチューンに立てる宿命的な誓い――は、紙の上では英雄神話としておなじみの題材に見えるかもしれない。だがこのオペラの真の現代性は、「神話」を人間の責任を極限まで加圧する圧力室として扱うところにある。Idomeneoでは、神々は舞台に「現れる」というより、公的危機として顕現する。海、地震、怪物、疫病のような恐怖、そして装飾的な絵姿ではなく市民共同体として機能する合唱――その集団心理として。[4]

作曲と委嘱

モーツァルトはカーニヴァル(謝肉祭)シーズンに向けた新作オペラの準備のため、1780年11月5日にミュンヘンへ旅立った。[5] Idomeneoの逆説の一つは、台本が遠隔地で作られた点にある。ザルツブルク宮廷の司祭ジャンバッティスタ・ヴァレスコがザルツブルクでイタリア語台本を書き、モーツァルトはミュンヘンで作曲する――その結果、権限の三角測量が異例なほど詳細に文書化され、レオポルト・モーツァルトが仲介者・交渉人、時に避雷針の役割を担うことになった。[1][6]

この往復書簡から浮かび上がるのは「旋律家モーツァルト」だけではない。劇場のプロフェッショナルとしてのモーツァルトである。テンポ配分に現実的で、冗長さに容赦なく、舞台機構にも注意深い。必要性ゆえに長すぎる曲は切るべきだと主張し、実際に削除を求める。よく引かれる例として、合唱「Placido e il mare」は、その劇的機能に対して単に長すぎると考えていた。[7] ここで重要なのは苛立ちではなくドラマトゥルギーだ。モーツァルトはすでに、緊張と解放の累積として時間を考えている――嵐をどこまで持続させられるか、憐れみがどれほど早く恐慌へ転じるか、どの瞬間に歌ではなく言葉で語らねばならないか。

配役は作曲を規定した。表題役は老練なテノールのアントン・ラーフによって創唱され、彼は以前のマンハイム周辺の人脈を通じてモーツァルトとつながり、委嘱の獲得にも影響力を持っていたらしい。[4] ラーフの強みは、権威が声の輝きと分かちがたく結びついた王をモーツァルトに書かせた――しかも道徳的危機が、朗唱だけでなく危険なコロラトゥーラとして表出する王である。とりわけ有名な「Fuor del mar」は、筋とは無関係な装飾的見せ場ではない。筋そのものの内側の乱流が、技術へと変換されたものなのだ。

最後に、ミュンヘンの劇場はスペクタクルを求めた。モーツァルトはフランス風のdivertissementとしてバレエ音楽(K. 367)を提供する。これは宮廷の嗜好への示唆に富む目配せであり、また、グランド・オペラは恐怖をくぐり抜けた後であっても、舞踊による祝祭に至るべきだという汎ヨーロッパ的期待への応答でもある。[1][8]

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台本とドラマ構造

ヴァレスコの台本は、イドメネウス物語の長い劇作系譜(アントワーヌ・ダンシェのIdoménéeをめぐるフランスのオペラ的伝統を含む)を下敷きにしており、モーツァルトの楽譜はたびたび、イタリアopera seriaのファサード越しに、より悲劇的な演劇に近い何かを見通そうとする芸術家の姿を示す。[1] オペラは形式上、三幕のdramma per musicaのままである――レチタティーヴォ、アリア、アンサンブル、そして祝祭的な枠組みで結ばれる。しかしその感情のエンジンは英雄的な「筋」そのものより、私的感情が公的誓約と衝突するところにある。

その衝突を駆動する中心人物は三人(四人)だ。

  • イドメネオ(テノール):生き延びたことが道徳的負債となり、息子を滅ぼさずには返済できない支配者。
  • イダマンテ(当初はカストラート用。現在はメゾソプラノまたはテノールで上演されることが多い):「人間的」な英雄であり、その徳は慈悲と自己献身として実践される。
  • イーリアエレットラ(ソプラノ):政治的に奪われた者の二つの反応。捕虜から自ら選び取る市民へと変わっていくイーリアと、モーツァルトがほとんど心理描写の域にまで強めた、エレットラの不安定さ。

構造上の重要な達成の一つは、合唱によるドラマトゥルギーである。儀礼的句読点としてではなく、Idomeneoの合唱は「役者」だ。反応し、恐れ、神意を解釈し、そしてイドメネオの私的な誓いが公的惨事へ転化する道徳環境そのものを形作る。この合唱重視はまた、近年の研究や演出において本作が、古い宮廷オペラと後の音楽劇概念との「蝶番」として扱われてきた理由の一端でもある。[4]

音楽構造と主要ナンバー

Idomeneoにおけるモーツァルトの形式語法は、彼のオペラ作品の中でも幅広い。壮大な合唱、オーケストラによる情景描写へ傾斜する伴奏付きレチタティーヴォ、多部構成のフィナーレ、そして「ナンバー」と「場面」の境界を試すアリア。とりわけ示唆的な瞬間がいくつかある。

序曲

序曲は切り離された演奏会用小品ではなく、心理的な気象システムである。その動揺は、海が舞台であると同時に比喩でもあるドラマへ聴き手を準備させる。上演では、オーケストラ自体が主人公であるかのような宣言に聴こえることもある。モーツァルトは後にLe nozze di FigaroDon Giovanniで別のかたちにそれを探究するが、ここでは明確に自然元素として提示される。

イドメネオ:「Fuor del mar」

「Fuor del mar」はしばしばブラヴーラ・アリアと呼ばれる――それは確かにそうだ――しかしそのヴィルトゥオーゾ性は、外面的な「英雄アリア」というより、内的亀裂の音響的表象である。王が技巧によって恐慌を制御しようとする試みなのだ。研究者は、モーツァルトがこのアリアの一部を作曲し直し、後に改訂したことを指摘しているが、そこには歌手への実務的配慮と、モーツァルト自身の劇的本能の成熟が反映している。[1]

イーリア:「Zeffiretti lusinghieri」

イーリアの第1幕アリアは、一見すると驚くほど素朴である。田園的なそよ風、優しいフレージング、そして神話的な政治の只中では異物のような内省。その「異物感」こそが機能だ。イーリアは、このオペラに新しい倫理的中心を持ち込む――王朝の権利よりも、選び取られる共感へ。そうして後の公的解決が、機械的なlieto fine以上のものとして読めるようになる。

第2幕の嵐、合唱、伴奏付きレチタティーヴォ

第2幕の嵐の連鎖は、モーツァルトの「一段先」を行く劇場技法が具体化する場である。雷鳴と海のオーケストラ描写だけではない。舞台上の混乱を、音楽形式がいかに生き延びるかが問われている。モーツァルトは、舞台の「騒音と混乱」によって、まさに動きと群衆配置が最も複雑になる瞬間にフル・アリアが機能不全に陥り得ることを明確に懸念していた。そこで彼は、合唱の塊に挟み込まれつつ、能動的な管弦楽書法を伴う柔軟なレチタティーヴォを、その位置に好んだのである。[4]

エレットラ:「D’Oreste, d’Ajace」

エレットラの大いなる憤怒のアリアは、「古い」opera seria世界のショーストッパーとして扱われることもある。しかし同時に、それはモーツァルトの心理的リアリズムの手がかりでもある。彼女の怒りは単なる嫉妬ではなく、身分が欲望を保証するという世界観の崩壊に対する実存的パニックだ。現代の演出では、モーツァルトが最も妥協のない音楽を彼女に与えたがゆえに、エレットラがしばしばこのオペラで最も不穏な存在となる。

フィナーレとバレエ(K. 367)

結末は、いまなお活発な解釈上の問いを投げかける。誓いとほとんど犠牲に至りかけたトラウマを、儀礼的な回復の雰囲気でどう和解させるのか。付随するバレエ(K. 367)は、この作品が、都市共同体の癒やしが宣言されるだけでなく、視覚的にも示されねばならない宮廷環境のために構想されたことを強調する――音楽が一種の、公的秩序のコレオグラフィへと変わるのである。[1][8]

初演と受容

Idomeneoは1781年1月29日、ミュンヘンの宮廷劇場(今日ではキュヴィリエ劇場の伝統と結びつけて語られる)で、カーニヴァル・シーズンの主要なオペラ・イベントとして初演された。[1][4] 当日、レオポルト・モーツァルトと妹のナンネルもミュンヘンに居合わせた。事実上モーツァルトが国際的地位を賭けた勝負であったこの機会に、家族という異例に親密な枠が与えられていたことになる。[9]

同時代の手がかりは、称賛と「事件性」の双方を示唆する。初演前の1780年12月20日に書かれた手紙は、すでに「普遍的な喝采」を予告し、モーツァルトを「生まれながらの芸術家」と呼んで、来たるシーズンに向けてミュンヘンへの旅を勧めている。[10] 宮廷の内部からは、モーツァルト自身が後にリハーサルでの選帝侯の印象的な賛辞を伝えている。「こんな小さな頭に、これほど偉大なものが隠れているとは誰が信じようか?」――称賛であると同時に、神童的若さへの時代の魅惑をも捉えた言葉だ。[4]

しかし成功でさえ、宮廷プログラミングという現実の制約を伴った。好評にもかかわらず、ミュンヘンでの上演回数は短かった(カーニヴァル作品としてはよくある運命である)。モーツァルトはまもなくコロレドをめぐる緊張した軌道へ戻り、のちに1781年中に決裂してウィーンに留まることになる。[6]

上演史と遺産

Idomeneoが、モーツァルト後期のダ・ポンテ三部作ほど確固として主流レパートリーに属してきたことは一度もない。理由の一端は、要求する総力の大きさにある。大規模な合唱、充実したオーケストラ、英雄的様式と心理的ニュアンスの両方に応えうる歌手、そして神々を文字どおりのキッチュへ落とし込まず、舞台上で説得力ある存在にする演出家。だがまさにその要求ゆえに、本作は現代の解釈論争の試金石ともなってきた。

「改革オペラ」問題

根強い問いは、Idomeneoをどこまでグルック的改革に近い位置へ置くべきか、である。モーツァルトがグルックを明確に敬愛し、ウィーンの「改革」趣味の権威を理解していたことは確かだ。実際、後年には声種の変更(とりわけイダマンテとイドメネオ)を伴う改訂案さえ考えたが、1781年の時点では大部分が実現しなかった。[1] とはいえ、より興味深い遺産は、Idomeneoが「グルックに似ているか」ではない。モーツァルトが改革の価値――明晰さ、劇的真実、オーケストラの参加――を吸収しつつ、イタリア声楽書法の表現的極限を放棄しない、そのやり方にある。

ウィーン、改訂、そしてその後の生命

このオペラの「その後」には、新しい状況に合わせて作り替えようとするモーツァルトの継続的関心が含まれる。後年の上演や打診(1780年代のウィーンを含む)をめぐる資料は、Idomeneoがモーツァルトの中で「一回限りのミュンヘン委嘱」ではなく、生きた作品として存在していたことを示している。[3] この持続的な注意はまた、魅力的な反事実もほのめかす。もしIdomeneoが1780年代初頭のウィーンでより確固たる地位を得ていたなら、モーツァルトのその後のオペラの歩み――opera seriaからopera buffa、さらにSingspielへ、というふうに語られがちな――は、ジャンル転換というより、戦略的な多角化として見えるかもしれない。

家族の記憶が音楽史になるとき

Idomeneoの遺産の最も人間的な痕跡の一つは、1783年10月に関するモーツァルテウムの逸話に現れる。ザルツブルクへの最後の帰郷の終わりに、家族(コンスタンツェを含む)が別れの儀礼のように、Idomeneoの四重唱「Andrò ramingo」を一緒に歌ったという。[2] この場面の史料的確実性をどう評価するにせよ、象徴としてはふさわしい。Idomeneoは「出発」のオペラなのだ――一つの世界、一つの義務、一つのアイデンティティを離れること、そしてその後に待つ恐るべき自由について。1781年、それはイドメネオの物語であるだけではなかった。モーツァルト自身の物語でもあった。

[1] Wikipedia overview article with premiere date, synopsis framework, and revision notes (use as secondary reference).

[2] Mozarteum Foundation (Salzburg) biographical page with Idomeneo composition/premiere framing and Salzburg 1783 quartet anecdote.

[3] MozartDocuments.org dossier on March 1786, including documentation and context for later Idomeneo performances and related correspondence.

[4] The Cambridge Mozart Encyclopedia (excerpt PDF): contextualizes Munich Carnival commission, Raaff, Elector Karl Theodor’s court, and contemporary remark reported by Mozart.

[5] Digitale Mozart-Edition (Mozarteum): Mozart letter (5 Nov 1780) with travel/commission context for Idomeneo period.

[6] San Francisco Opera feature article on Idomeneo’s commission context and the Leopold/Varesco correspondence as window into Mozart’s process.

[7] Giambattista Varesco biographical article quoting Mozart’s December 1780 request for cuts (e.g., Act II chorus length).

[8] Neue Mozart-Ausgabe (Digitale Mozart-Edition) editorial notes PDF on pantomimes/ballets, including K. 367 as Idomeneo’s divertissement and references to Mozart’s letters.

[9] Spanish Wikipedia article noting Leopold and Nannerl’s presence at the Munich premiere (secondary corroboration).

[10] MozartDocuments.org: transcription/context for a 20 Dec 1780 letter anticipating the new Mozart opera in Munich and predicting universal applause.