弦楽五重奏曲第3番 ハ長調(K. 515)
볼프강 아마데우스 모차르트 작

モーツァルトの《弦楽五重奏曲 ハ長調 K. 515》は、1787年4月19日にウィーンで完成された作品で、室内楽の到達点の一つに数えられる。弦楽四重奏という理念を五声へと拡張し、ほとんど交響的と呼びたくなるほどのスケールを実現している。モーツァルト31歳の作で、1か月足らず後に完成する対の作品《ト短調 K. 516》に対して、意図的な対照(フォイル)として位置づけられる。
背景と文脈
1787年のウィーンはしばしば、モーツァルトのオペラの歩み——《Le nozze di Figaro》の余韻と、《Don Giovanni》に向けて迫り来る要求の狭間——によって語られる。だが春に書かれた2曲の五重奏(K. 515とK. 516)は、別の、より私的な野心の側面を明かす。そこにあるのは、劇場に通う大衆ではなく、目利きと演奏家のために構想された音楽である。そもそもヴィオラ五重奏(弦楽四重奏に第二ヴィオラを加える編成)という選択自体が、内声に異例の修辞的重みを与える南ドイツ〜オーストリアの伝統に根ざしており、そのおかげでモーツァルトは、四声の格子では窮屈になりかねないほどの和声と対位法の密度で書くことができた [1]。
ハ長調五重奏のスケールは、円熟期のモーツァルトとしても驚くほど大きい。チャールズ・ローゼンは有名な議論の中で、冒頭楽章を、モーツァルトが「室内楽」が会話的前提を手放さずに大規模形式のドラマをどこまで投射できるかを試す場の一つとして扱っている——それは、K. 515が「拡大された四重奏」というより、五重奏という媒体に固有の思考で書かれた弦楽アンサンブル作品のように感じられる理由を説明してくれる [2])。しかし、この作品の広がりは水増しから来るのではない。主題を息の長い話法として展開し、それを声部間で受け渡しながら、前景が変わっても連続性が保たれるようにする——モーツァルトのそうした習性から生まれている。
K. 515とK. 516はしばしば、相補的な対極(ハ長調の広々とした輝きに対し、ト短調の悲劇的な緊迫)として語られる。だがこの組み合わせは、「明るい調/暗い調」という表層的対比というより、五声の響きそのものを共同で探究する試みとして聴く価値がある。両曲とも第二ヴィオラを、和音を厚くするためだけでなく、中域を開き、和声的意味がその場で交渉される領域を作り出すために用いる——しかもそれは、18世紀後半の室内楽ではしばしば主張ではなく伴奏を任されがちなヴィオラやチェロによって行われることが多い。
作曲と献呈
モーツァルトはK. 515を1787年4月19日、ウィーンで完成した [1]。対になる《弦楽五重奏曲 ト短調 K. 516》は1787年5月16日に続き [3]、この2作は孤立した実験というより、五重奏書法の集中的な噴出として感じられる。
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1782〜85年の「ハイドン」四重奏曲——献呈や出版戦略が異例なほど詳しく記録されている——とは異なり、K. 515には、主要な参考文献で語られるような委嘱や献呈者の鮮やかな外部物語が同程度には付随しない。むしろ異例なほど具体的なのは、資料としての足跡である。作品は自筆譜(オートグラフ/ホログラフ)の史料として残っており、モーツァルトの弦楽五重奏曲に関する現代の校訂研究は、Neue Mozart-Ausgabe(新モーツァルト全集)の編集事業を軸に集約され、K. 515は後期ウィーン室内楽カタログの要石として扱われている [4]。分析を一次資料と結びつけたい読者にとって、主要図書館や現代版を通じた入手しやすい楽譜伝承は、K. 515を、モーツァルトの記譜——アーティキュレーション、スラー、声部連結——が演奏者の直感的に感じるレトリックをいかに支えているかを学ぶための、最良級の「実験室作品」の一つにしている。
出版史もまた、モーツァルトが五重奏曲を市場性のある作品として長期的に考えていたことを示唆する。モーツァルテウムのケッヘル目録はより広い傾向に触れており、これら後期の弦楽五重奏曲は出版を意図されていたらしい——たとえ、いくつかが印刷で世に出たのが死後であったとしても [1]。現存するパート譜や初期印刷(図書館目録やIMSLPなどのレポジトリに記録されている)は、K. 515を、職業音楽家と教養あるアマチュアのあいだで室内楽が流通するあり方を形作った、アルタリア社を中心とするウィーンの出版世界の中に位置づける [5])。
形式と音楽的性格
K. 515は4楽章構成だが、その真のドラマは、モーツァルトが「広がり」と「親密さ」をいかに両立させるかにある。第二ヴィオラは、その瞬間ごとに語り得る内容を変える。内声の模倣を可能にし、低音を空洞化させずにチェロを旋律の前面へ押し上げ、基本的に明るい調性の内部に、和声的キアロスクーロ(明暗)——光と影——を生み出す。
- I. Allegro(ハ長調)
- II. Menuetto: Allegretto(ハ長調)– Trio
- III. Andante(ヘ長調)
- IV. Allegro(ハ長調) [2])
I. Allegro(ハ長調)
第1楽章の冒頭は、五重奏という媒体が抱える問題——第一ヴァイオリンを協奏曲的独奏者にしてしまわずに、いかに権威ある開始を実現するか——に対する、モーツァルト屈指の解答の一つである。彼は開始部を、チェロと第一ヴァイオリンという音域の交換として枠づけ、追加されたヴィオラが中声部を単なる埋め草ではなく「生きた」領域として保つのを助けている [6]。その結果、幅の点ではオーケストラ的に響き得るのに、方法の点ではあくまで室内楽であるテクスチュアが生まれる——新しいフレーズが現れるたび、すでに語られた何かへの応答として聞こえる。
ローゼンによる大規模器楽形式の論点は、この楽章がこれほど長く感じられながら、断片的(エピソード的)に響かない理由を明確にしてくれる。モーツァルトはしばしば、移行部——転調、ゼクエンツ、対位法的な緊密化——にこそ主題に匹敵する同一性を担わせることで推進力を持続させる [2])。K. 515における広大な提示部は、単に「素材が多い」のではない。五つの独立した線が協働して終止を先送りし、古典的ソナタ・アレグロ形式を引き伸ばして、交響曲の第1楽章に近い修辞的射程へと迫っていく、その実演なのである。
II. Menuetto: Allegretto(ハ長調)– Trio
モーツァルトのメヌエットは、宮廷舞曲が室内楽的レトリックへと洗練されたものだと語られがちだが、K. 515ではメヌエットが重みの研究になる。拍頭はオーケストラ書法を思わせる確かさで着地しつつ、内声は絶えず和声を組み替え直していく。ここで第二ヴィオラが決定的に重要だ。片方のヴィオラが和声に陰影を与える一方で、もう片方が模倣的対話に加わる、といった具合にテクスチュアを「傾ける」ことができるため、譜面上は素直な周期構造の舞曲が、演奏ではゆっくり回転する機構のように感じられる。
対照的にトリオは、よりくつろいだ牧歌的な対空間を提供するが、モーツァルトは安易な解放に逃げない。トリオは溶け合いと均衡に依存するよう書かれており、アンサンブルの中心(ヴィオラ群とチェロ)が色彩のエンジンとなる。言い換えれば、トリオは単に旋律を提示するのではなく、五重奏の中域そのものを独立したキャラクターとして浮かび上がらせる。
III. Andante(ヘ長調)
緩徐楽章はしばしば、K. 515がアリア編曲のように聞こえることなく「オペラ的」だと聴き手を納得させる。理由は旋律というより構造にある。モーツァルトは持続する線を重ね合わせ、ある声部が息継ぎに入ると別の声部が続けるように仕組むことで、5人が順番に歌うのではなく、アンサンブル全体が一つの有機体として歌っているかのように響かせる [6]。ここでも第二ヴィオラが重要で、第一ヴァイオリンが抒情の負担を一手に引き受けずとも、内声に真のカンタービレ(歌う線)を成立させられる。
漫然と聴いていると見落としがちなのは、モーツァルトがテクスチュアを薄くせずに親密さを培っている点だ。18世紀後半の緩徐楽章では、「優しさ」を活動量の縮減で得ることが多い。ここでは室内楽としての密度を保ったまま、和声の歩みの速度と音色の節度によってアフェクトを転じる。そのため演奏者は、ヴィブラート、弓のスピード、声部連結の強調といった解釈上の選択によって、楽章を敬虔にも、会話的にも、あるいは穏やかに演劇的にも感じさせることができる——それはアンサンブルの美学次第である。
IV. Allegro(ハ長調)
終楽章はしばしば、明るく、エネルギッシュで、基本的に肯定的な「解放」として聴かれる。だが、その技法は単なる快活さよりもはるかに精妙だ。モーツァルトは連続性によって生きる楽章を書いた。ある楽器が前景を譲っても別の楽器が糸を保ち、五重奏が常に話の途中——つねに文の半ば——にあるかのような感覚を生む [6]。ここは、五声という媒体が四重奏より優位に立つ場面の一つでもある。ある層でリズムのエネルギーを生かしながら、別の層に長い旋律弧を紡がせることができるため、推進力を四声だけで担わねばならない終楽章に時として生じる「止まっては進む」感触を回避できる。
演奏において終楽章の成否を分けるのはしばしば、運動のヒエラルキー——どの線が推進で、どれがコメントで、どれが和声の舵取りか——をどれだけ明瞭に артиculate(明確化)できるかである。K. 515は、ヴィオラを「追加の厚み」としてではなく、方向づけの担い手として扱う団体に報いる。
受容と遺産
K. 515の評価は長らく、一つの逆説に支えられてきた——「記念碑的」であると同時に「私的」でもある、という逆説である。学者も演奏家も、そのスパンを交響曲的と形容しがちだが、五重奏という媒体は、そのドラマが見世物ではなく説得によって演じられることを保証する。K. 516とのカップリングも作品の来歴を形作ってきた。2曲を並べて聴くと、それは、共通の技術的前提から築かれ、数週間のうちに作曲された、補完的な傑作という理念へのモーツァルトの後期の回答のように感じられる [1]。
この作品の遺産は、校訂と制度の側面にも及ぶ。モーツァルトの弦楽五重奏曲は、家庭での音楽作りと高度な鑑賞文化(コノサーシップ)の交差点に位置するがゆえに、近代の批判校訂運動の中心に置かれてきた。線のつながりと分離の仕方にレトリックが依存する音楽では、アーティキュレーション、スラー、異同箇所(ヴァリアント)の扱いが痛切なほど重要になる [4]。この意味でK. 515は、今日多くの聴き手が「古典派の室内楽様式」として受け取るもの——単なる優雅な会話ではなく、小さな編成で大きな形式を語らせるための規律ある方法——の輪郭を定めるのに寄与してきた。
録音史もまた同じ二重性を映し出す。現代のアンサンブルはK. 515を、専門家向けの珍品としてではなく標石(タッチストーン)としてプログラムに置くことが多い。ときに客演ヴィオラ奏者を招いて五重奏を完成させ、その協働という行為自体を可視化する(K. 516と対にした著名な現代リリースに見られるように)[7]。しかし最も啓発的な演奏は、これを「小さな交響曲」として扱う誘惑に抗うものだろう。この五重奏の偉大さは、まさに五つの声部がそれぞれ個として責任を負いながら、同時進行で説得していく、そのあり方にこそある。
[1] Mozarteum (Köchel-Verzeichnis) work entry for KV 515: date, key, scoring, contextual notes.
[2] Wikipedia overview of String Quintet No. 3, K. 515 (includes movement list; cites Charles Rosen and other scholarship).
[3] Mozarteum (Köchel-Verzeichnis) work entry for KV 516: completion date and contextual pairing with KV 515.
[4] Digital Mozart Edition (Neue Mozart-Ausgabe) foreword to Series VIII/19/1 String Quintets: editorial context and source-critical approach.
[5] IMSLP page for String Quintet No. 3, K. 515: public-domain scores/parts and publication information references.
[6] Brentano String Quartet program note on Mozart’s Quintet K. 515: discussion of texture, continuity, and movement character.
[7] Warner Classics release information (Quatuor Ébène with Antoine Tamestit) pairing K. 515 and K. 516—illustrates modern collaborative performance practice.




