弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K. 516
av Wolfgang Amadeus Mozart

モーツァルトの《弦楽五重奏曲 ト短調 K. 516》は、彼自身の主題目録に1787年5月16日付で記載された作品であり、ウィーン成熟期のなかでもとりわけ深い探究心に貫かれた一作として位置づけられる。五声がもたらす親密さと、交響的とも言える議論のスケールとを結びつけた点で傑出している[1]。古典的な「ヴィオラ五重奏」(ヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロ)という編成のために書かれ、ト短調を持続するドラマへと変貌させる。その終盤でト長調へ転じる結末は、以来ずっと議論を呼んできた――慰めなのか、妥協なのか、それとも苦闘の末にようやく雲が切れる瞬間なのか[2]。
背景と文脈
1787年のウィーンの春は、その先に待つ《ドン・ジョヴァンニ》によって語られがちだが、4月から5月にかけての数週間には、モーツァルトが室内楽という形式に特別な濃度で思考を注いでいた姿が見える。ひと月に満たない間に、彼は堂々たる《弦楽五重奏曲 ハ長調 K. 515》(1787年4月19日)を完成させ、さらに5月16日にはこのト短調五重奏曲 K. 516 を仕上げた[1]。この二作を対で捉えることには意味がある。単なる「陽光と嵐」の対比ではなく、弦五重奏という五つの声部を、四重奏より「厚い」だけの響きではなく必然として成立させるにはどうすべきか――同じ課題に対する二通りの解答だからだ。
ト短調の選択は、K. 516 をモーツァルト作品中でも小さいながら強い電荷を帯びた星座の中に即座に据える。彼は短調を避けたわけではないが、ト短調はとりわけ凝縮された発話のために取っておいたように見える。交響曲第40番(K. 550)、《ピアノ四重奏曲》(K. 478)、そしてこの《弦楽五重奏曲》K. 516 は、抒情と痛みが緊密に拮抗し続ける一本の線を形成している。K. 516 を際立たせるのは、その悲劇が特定の「独奏」声部に沈殿せず、二本のヴィオラを経由して受け渡され、やがて意外にもチェロへと重心が移り、さらに内声のサスペンションのなかへ溶けていくことだ。そこでは、どの旋律も苦悩の所有権を主張できない。
史料の痕跡は、この音楽と共にあったモーツァルトの日常を小さいながら生々しく覗かせる。宛先不明の手紙で彼は、「明日まで」相手が「私の6つの四重奏曲――ト短調の五重奏曲と、新しいハ短調のそれ」を送ってくれるよう依頼している[3]。一見すると単なる資料の催促だが、同時にそこには、室内楽作品を私的な告白としてではなく、取り寄せられ、写され、演奏され、ときに売られる「使用可能な物品」(パート譜)として流通させることを当然視している作曲家の姿がある。《公的な実用性》と《私的な強度》の緊張関係こそ、K. 516 が古典的に構築されながらも心理的に剥き出しに感じられる理由の一つである。
作曲と献呈
モーツァルトは自らの目録に「ウィーン、1787年5月16日」と日付を記した。感情面から、ときに小説的ですらある語り口で説明されがちな作品にとって、これは異例なほど確かな錨となる[1]。同じ記載には、彼が想定した編成――現在の標準でもあるヴァイオリン2、ヴィオラ2、ヴィオロンチェロ――も保存されている[1]。つまり K. 516 は、内面的な対話を自然に誘発する媒体のために書かれたのである。増えたヴィオラが中音域を厚くし、モーツァルトは「旋律+伴奏」という序列に頼らず、内声そのものから議論を組み立てられる。
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「ハイドン四重奏曲」のように明確な献呈先をもつ作品とは異なり、K. 516 は同じように象徴的な単一の献呈者に結びつけられていない。この不在は、長いあいだ伝記的推測を誘ってきた。個人的な契機を探す論者もいれば、五重奏曲の表現の射程は、読み解くべき私的プログラムよりも、声部進行、音域、テクスチュア、大規模な調性設計といった作曲上の手段によって主として達成されている、と慎重に見る立場もある。
とはいえ、自筆譜・関連資料には具体的で、しかも音楽的に無関係ではない細部がある。モーツァルトは作品に日付を与えただけでなく、目録記録に関連してウィーンの特定の場所(「Landstraße」)まで書き留めているのだ。これは、この「後期の傑作」が抽象的な空間で生まれたのではなく、都市の地理と日々の務めのただ中で書かれたことを思い出させる[4]。K. 516 の感情温度に対峙するとき、こうした地に足のついた視点は重要である。音楽は極限的だが、手仕事は意識的で周到なのだ。
形式と音楽的性格
I. Allegro(ト短調)
冒頭楽章は、劇的な衝撃で深刻さを誇示するのではなく、一種の《倫理的な固さ》によってそれを告げる。フレーズは始まり、落ち着き先を探し、しかしサスペンションや半音階的な屈折によって、やわらかく、それでも執拗に休息を拒まれる。初聴では「悲劇的な第一主題」に聞こえるかもしれないが、むしろそれは動機の《ネットワーク》として理解したほうがよい。小さく可塑的な細胞が内声へ移り、変容して戻ってくる。
ここで弦五重奏という媒体が決定的になるのは、不穏さをテクスチュアの《内部》に置ける点である。第2ヴィオラは単なる穴埋めではなく、しばしば和声が転回し、感情の意味が研ぎ澄まされる場所となる。そのため第1ヴァイオリンが旋律表面を担っているときでさえ、聴き手の耳は繰り返し中音域へ引き寄せられる。音楽の論争が実際に交渉されているのは、まさにそこだからだ。
II. Menuetto: Allegretto(ト短調)— Trio(ト長調)
この楽章をメヌエットと呼ぶことは誤解を招きうる。舞曲の輪郭は保たれているが、情緒はむしろ陰鬱な行進に近く、強いアクセントと、息を詰めたような緊張感がある。トリオでのト長調への移行は、しばしば定型的な対比として扱われるが、K. 516 ではより壊れやすい《別世界》の出現のように感じられる――大きなドラマを解決しないまま、束の間だけ許される世界である。
演奏においては、ここでアンサンブルの作品観が露わになる。メヌエットをあまりに滑らかに奏すれば、楽章は礼儀正しい間奏曲に後退する。重さを引き受けて演奏すれば、トリオは「安堵」そのものというより、住み着くことのできない安堵のイメージとして響きうる。
III. Adagio ma non troppo(変ホ長調)
モーツァルトの緩徐楽章はしばしば歌う。しかしこの楽章は、歌うことを《記憶し》つつ、それ自体をどこか疑っているかのようだ。変ホ長調――広がりと気高さに結びつけられがちな調――がゆったりとした枠組みを作る一方、ため息のような音型や、私的な逡巡を思わせる和声の折れが、フレージングに絶えず影を落とす。
この Adagio を実り多く聴く方法の一つは、室内楽が最も声楽的になる瞬間として捉えることだ。外向的な誇示という意味での「オペラ的」ではなく、役割の配分において声楽的なのである。内声はしばしば注釈の役割を担い、ある声部が公的な線を保とうとする背後で、別の「人物」が小声で語るかのように働く。この会話的な層の重なりこそ、ヴィオラ2本のテクスチュアが可能にするものだ。
IV. Adagio — Allegro(ト短調 → ト長調)
終楽章の遅い序奏(Adagio)は、モーツァルトのなかでも最も不穏な「敷居」の瞬間の一つである。単に雰囲気を設定するのではなく、形式そのものに圧力をかけ、音楽が先へ進めるかどうかを決めねばならないかのように響く。この効果は、カデンツの扱いによって増幅される。到達点は近づかれ、しかし揺さぶられ、そして再び近づかれる。こうして「終わること」自体が、単なる構造上の要請ではなく主題的な観念となる。
そして有名な転回が訪れる。Allegro がト長調へ突入するのだ。これが肯定なのか、皮肉なのかは、解釈上の真の断層線となってきた。長調の結尾を、作品内の葛藤が苦闘の末に解決されたものと聴く分析者もいれば、心理的には取り消されていない悲劇の上に、形式的必要として明るさが課されたのだと聴く者もいる。『新モーツァルト全集』の解説自体も、この作品の位置づけと解釈の賭け金が異例に高いことを示し、K. 516 をモーツァルトの弦楽五重奏作品群の中心にある対象として扱っている――まさにその表現論理が容赦なく徹底しているからである[2]。
確かなのは、モーツァルトが「幸福な結末」を、ただ与えられるものではなく《議論によって成立させねばならないもの》にしていることだ。長調の終止は無償ではない。三つの楽章と序奏を通じて、聴き手の耳は「G(ト)」を問題として扱うよう訓練されてきた。最後に音楽がト長調を断固として主張するとき、その主張の強さそのものが意味となる。
受容と遺産
K. 516 は、モーツァルトが販売可能な作品として流通させようとしたと思われる弦楽五重奏曲群の一つに属する。出版の経緯全体は複雑だが、少なくとも、これらの五重奏曲は(のちに後期交響曲がそうなるような)安定した広い「公共レパートリー」へ即座に入ったわけではない。パート譜の返却を急いで求める手紙は、モーツァルトの生前、室内楽が制度化された演奏会生活よりも、私的なネットワーク、写譜、パトロネージュを通じて生きていたことを思い出させる[3]。
長い視野で見れば、K. 516 は、モーツァルトの室内楽がサロンの娯楽でもオーケストラの代用品でもないときに何が可能かを示す試金石となった。それは五声のドラマであり、悲劇は外側から上演されるのではなく、共存を強いられた声部同士の摩擦から生成される。だからこそ演奏家と聴き手は、この作品に「ト短調の強度」だけを求めて戻ってくるのではない。感情を単一の旋律へ単純化しないという作曲上の倫理、そして解決が訪れるとしても、それは会話を通じてでなければならないという執念に惹かれて戻ってくるのである。
とりわけ現代の論考では、K. 516 の意味はバランスに依存する作品として語られることが多い。メヌエットの重さとトリオの見かけの陽光、Adagio ma non troppo の深みと終楽章が目指す長調の行き先、そして何より五つのパートすべての等しい尊厳。こう聴かれるとき、この五重奏曲は「絶望から喜びへ」という物語というより、古典形式が感情の圧力を否認せずに――そのまま抱え込む――方法についての研究となる。
[1] Mozarteum Köchel-Verzeichnis entry for K. 516 (catalogue data, scoring, and completion date 16 May 1787).
[2] Neue Mozart-Ausgabe (Digital Mozart Edition), editorial commentary for the String Quintets (context and scholarly framing of K. 516).
[3] Digital Mozart Edition: “Mozart to an unknown recipient, Vienna” (letter mentioning ‘the quintet in G minor’ and ‘the new one in C minor’).
[4] Bärenreiter preface (editorial notes referencing Mozart’s catalogue entry details, including date/place annotations for K. 516).




